「むらさきの君」


紫式部の実がなる季節になると思い出す。あの人のことを・・・。
あの人の大好きな色だった。静けさと艶を持ったあの紫色を、こよなく愛していた。


若かりし私は、あの人の車椅子を押して、近くの公園に散歩に出かけたものだ。
あの人は胸を患っていた。今でこそ不治の病ではなくなったが、当時はまだ特効薬と
いうものがなかった時代。
本来ならば、家族とて隔離された所に住むほど、人々からはそれこそ疫病神のように
扱われていた、肺結核という病である。

私はあの人との結婚はおろか、一緒にいることさえ許されていなかった。
前途ある若い女が、何故、相手も守れず死にゆく男と運命を共にしようというのか?
家族・親類には勘当同然に見離された。
それでも私はあの人を愛していた。あの人のそばにいたかったのだ。

「陽彦(はるひこ)さん、今日は陽射しも暖かくてよ?公園にお散歩にまいりましょうか?」
私はあの人を誘った。
「そうだね・・・」
あの人は力なく言った。
「今日も晴れか・・・。近ごろ僕は、雨の方が好きなんだ。心が落ち着くというより、
 ああ、これで外に出なくてもいいんだ・・・と・・ほっとするんだよ」
「まぁ・・・。暖かい日に外に出て、お陽さまに当たるのはよいことだとお医者さまも
 おっしゃって・・・」
「それはわかっているよ。けれどね、君にはわかるかい?日に日に体力が落ちて、
 死に近づいてゆく現実を、枯れゆく草花に重ね合わせて見てしまう僕の気持ちが・・・?」

遠い目をして空を見上げるあの人。
無理やりあの人を連れ出して、辛い思いを味わわせてしまっていたなんて・・・。
私はそれ以上何も言うことができず、こみ上げそうになる涙を必死で堪えていた。


ある日のこと、めずらしく朝ごはんもおいしそうに食べたあの人が、私にこう言った。
「夏女(なつめ)、今日は何となく気分がいいんだ。公園に散歩に出かけようか?」
「そうね、今日は風もなくてお散歩するのにはちょうどよろしいわね」

ウールのチェックのひざかけをかけて、お気に入りのハンチング帽をかぶり、
マフラーを巻いておしゃれもできたわ。さぁ、お散歩にまいりましょう。
「今日はあの公園に行ってみたいんだ」
「あの公園?」
「いつだったか、君が連れて行ってくれた公園だよ」
「え、ああ、あそこはちょっと遠くてよ?」
「いいんだ。こんなに気持ちのいい日は久しぶりだよ。できるだけ君との楽しい時間を
 過ごしておきたい。枯れゆく草花に自分を重ね合わせず、強さを持って生き抜きたいのだ。
  残り少ないこの生涯を・・・」
「陽彦さん・・・」

私と共に生きてくれようとしているあの人の心がうれしく、この上ない幸せを感じた瞬間だった。

その公園はなだらかな坂の上にあり、小高い丘の上からは、眼下に町並みが見渡せた。
私は思いのほかここが好きで、あの人の調子のよさそうな時は、ひとりでここに来て
風に吹かれていたこともある。
夏以来しばらく来ていなかったのだが、すっかり秋の様相を呈していた。

10月には町中に、そのほがらかな山吹色と、甘く芳しき香りをふりまいていた金木犀も、
11月ともなるとすっかり姿をひそめる。
季節は冬に向かって、銀杏は黄色い葉を落とし、木立も寒々とし始める。
そんな中、ふと目を引いていた紫色、それが紫式部だった。

丘の上の公園に、秋になって初めて訪れたあの人は、真っ先にその紫色を見つけた。
「あれは何?」
「紫式部というの。夏に咲く花は小さくて目立たないけれど、秋になるとその実の色の美しさは、
 ちょっとそこいらの草木では敵わないわね」
「・・・そうか・・・こんな切ない色合いの実があったのだね・・・僕の大好きな色だ・・・」
「一枝もらっていきましょうか?あ、ハサミを持って出かければよろしかったわね」

すると、しばらくうっとりと見つめていたあの人はひとことこう言った。
「いや、この実は、ここで皆と一緒に風にそよいでいた方が美しいよ。僕はまたここに
 見に来るからね。来年もまたこの紫を見に来れるよう、僕も頑張るよ・・・」
「陽彦さん・・・」


あの人の瞳は、紫式部に負けず輝いていたのを、昨日のことのように思い出す。

その晩、あの人は多量の吐血をし、翌日あっけなく逝ってしまった・・・・・。
今思えば、最期のあの人の私への優しさだったのかもしれない。

あの人と運命を共にしようと思っていた私が、こんなに永く生きているとはなんとも
皮肉なものである。
だけれど、あの人は私に愛するということを教えてくれた・・・。


紫式部の実がなる季節になると思い出す。あの人のことを・・・。
あの人の大好きな色だった。静けさと艶を持ったあの紫色を、こよなく愛していた。

私もこの紫色がますます好きになったのですよ、あれから。
今でもあなたを愛しています・・・・・。